2016年3月19日土曜日

模擬国連

国連平和大学ということで、授業で模擬国連をやりました。
まるまる3日間のこの授業では、様々な部門に分かれて、本物の会議さながらに議論を進めて決議案を出していきます。

今年度の部門は全部で6つ。
国連総会:東シナ海における領土及び防衛問題
世界貿易機構:WTOにおける環境問題への取り組み
国連人権理事会:性と生殖に関する健康と権利
国連総会:UN平和維持軍における合法性
安全保障理事会:シリアの治安及び平和維持活動
欧州人権裁判所:少数民族ロマの子どもの教育及び差別の禁止に関する裁判

わたしはヨーロッパ人権裁判所で、クロアチアのロマの子どもたちの権利を守るべく、裁判官になりました!



今回、議題となったロマの人々はジプシーと呼ばれることもあり、ヨーロッパの広い地域にいる独自の言語や文化を持っている部族。もともとはインドなどの中央アジアにルーツを持つと言われており、歌や踊りなど芸術に長けている人が多いのも有名。今では定住する人も多くいるけれど、元々は各地を転々とする生活スタイルでした。

そしてヨーロッパに行ったことがある人だったら経験した人もいるかもしれないけれど、じつは彼らの犯罪行為も悪名高く、盗みや詐欺行為をする女性や子どもも少なくないとか。私自身は犯罪にあったことはないけれど、大学生の頃に行ったスペインで大聖堂の前で物乞いをしているロマ族の子どもたちを見てすごくびっくりした思い出が...。当時の私にとって、その光景は自分の中にあったきらびやかなヨーロッパのイメージと全然違ったのでなかなかショックなのでした。

それから彼らの歴史は迫害の連続で、ナチスドイツはユダヤ人だけでなくロマに対してもかなり酷い弾圧と迫害がありました。そして今でも、ヨーロッパ各地で彼らに対する差別や偏見、弾圧行為が行われており、チェコ、スロバキア、ルーマニア、ハンガリー...いろいろな国で彼らの権利をめぐって議論が起こっています。

今回の議題もまさにその一つ。

舞台はクロアチアで、訴訟を起こしたのはなんと当時10歳から15歳だったロマ族の子ども達15人。クロアチアの公立小学校において、ロマ族の子どものみの隔離教育、簡易カリキュラムの使用、彼らにとって第二言語となるクロアチア語補修クラスの不足などがあったため、以下三つの条項についての違反の有無について議論をしました。
1)公平な裁判を受ける権利
2)差別の禁止
3)教育を受ける権利
※ちなみに実際にあった訴訟をもとにしています





で、今回の私たちの議論では公平な裁判を受ける権利の侵害、差別の禁止の違反は認められるけれど、教育を受ける権利の侵害は認められない、という判決に収まりました。

公平な裁判をめぐっては、この裁判が4年以上にわたって行われたため、学習機会の剥奪など裁判による損害が認められたためです。

そして他2つの条項に関しては、世界人権宣言(UDHR)や児童の権利に関する条約(CRC)を見ればこれは明らかに教育を受ける権利の侵害でしょ!ってなるんだけれども、今回の裁判はヨーロッパ人権条約に基づくものだから使えない。

本当に、たくさんの事柄が関係していて複雑な問題なんだけれど、大きな問題の一つは第二言語のクロアチア語/クロアチア文化に基づいた教育を受けるロマの子どもたちへ、政府や学校がどれくらいの配慮をするのか、ということ。
今回の訴訟においては、クロアチア語能力の低さがロマの子どもを隔離クラスに入れたり簡易化されたカリキュラムの使用理由としてあげられていて、そのロマのニーズを知りつつも学校側は言語補修クラスを全てのロマの子どもたちには提供していなかった。
わたしは、この事実は「全ての子どもたちに適した教育を施す」という責任を学校や政府が果たしていないくて、なおかつ言語の違いに基づいた差別を引き起こしているために、結果的に教育を受ける権利を侵害していると思う。UDHRやCRCを参照したらそれで合っていると思うのだけれども、ヨーロッパ人権宣言だと「国は教育を受ける権利を否定してはならない」というなんともぼやっとした書き方をしていて、そうすると今回の件ではロマの子どもたちをはじめから除外しているわけではないので(むしろ隔離教育をしてレベルに適した教育をしている!という主張が通る)この違反には当てはまらない、という結論に。

で、実際の裁判においても差別の禁止と教育を受ける権利の違反は認められなかったのでした。

だけど似たようなチェコの裁判では、ロマの子どもが特別支援クラスに入れられていたこともあり、二つの条項に関しての違反が認められていた。
一体何をもって差別とするのか、国はどこまで個人の教育を受ける権利を保障できるのか、答えはいつも白黒はっきりわけられるわけじゃないんだよね。

なかなか緊張感のある3日間限定の裁判官体験でした。
明日からイースター休み!しばしの休暇、グアテマラへ行ってきまーす^^




2016年3月7日月曜日

TVM

今月1日で、このプログラムに参加してまるまる1年が経ちました。
もうこれで4年も日本の桜を見てないな...
コスタリカでの日々も、早いもので残りあと3ヶ月。
この生活が当たりまえの日常になっているからなかなか感じないけれど、1日1日が実はとても貴重な時間なんだろうなと思います。


きのうとおとといはThe Vagina Monologueというパフォーマンスを大学でやりました。



じつはコスタリカでは自分にとって全く新しいことを始めようと思って、去年は毎週インプロビゼーションという即興劇のクラスに行ってました。
今年に入ってからインストラクターの都合でなくなってしまったんだけれど、いろんなつながりがあって今回のパフォーマンスに出ることに。



The Vagina Monologueはアメリカ人のEve Enslerという劇作家が世界各国の200名を超える女性たちへのインタビューを基に、彼女たちが自らの女性器について語ったモノローグを舞台化したもの。1996年にブロードウェイで上演された時にはメリル・ストリープやグレン・クローズも出演した舞台です。

彼女のTED talkにて語られるThe Vagina Monologueの背景がとても興味深いです
【イヴ・エンスラー心と体に宿る幸せ】
http://www.ted.com/talks/eve_ensler_on_happiness_in_body_and_soul?language=ja


舞台に立つなんてとてもわたしのキャラじゃないし、英語でセリフ覚えるとかできるのかとか、そもそも内容も....といろいろな葛藤がありながら、練習を続けた3ヶ月。

日々の授業や課題の合間に練習して、毎週集まってリハーサルするのはとても簡単ではなかったけれど、すごく、すごく、いい経験になりました。
演じる、舞台に立つ、ということももちろんだけれど、文字通り多種多様な人種や文化のなかで一つのことを成し遂げるっていうプロセスがとても勉強になったし、楽しかった。


それから、この内容に関してのたくさんの議論。

この多様性に恵まれたオープンな環境のなかでももちろん、性の話題をタブー視する人は少なくない。こんなこと、舞台にするなんておかしいっていう人もいるし、vaginaという一単語を聞いただけで思いっきり顔をしかめる人もいたし、チケットを買ったもののやっぱり返す、という人もいた。
そんな人はだいたい男性だったけれど、女性でも少なからずいたり。

私も出演者でありながら、そんな人たちの気持ちもなんとなく察していた。
だって日本のコンテクストだったら、なかなか難しいもんね。
私にとってもこの手の話題は英語だったら話せるけれど日本語だったら話しにくい類の一つ。自分にとって第二言語の英語は第一言語の日本語ほど単語の意味に重みを感じないから、躊躇なく話せるんだろうな。

そんないろいろのやり取りがありつつも、無事に公演初日を迎えてなかなかの大成功に終わったわけでした。



だけど二日目の公演直前の舞台裏で、他の出演者と話をしていて初日の公演でなかなか劇場内に留まれない男性がいた、という話が出た。
どうして留まれなかったかというと、vaginaの話題は彼にとって気まずいものだったから。で、どうして気まずいのかといえば、彼の文化的にとても馴染むものではないから。
まあそうだよね、という諦めとも同情とも言えるような相槌がその場に流れたんだけど、でも、なんでもかんでも「文化」を言い訳にするなんておかしい、という意見が出た。

どの文化にだって男性と女性はいて、だから性の話題はどこにでもあるもので、vaginaだってその一つ。
それを「文化だから」を根拠に避けるのはおかしい。

確かにその通りで、この多様性のコミュニティの中では「文化」がある種の言い訳としてまかり通ってしまう。
+みんなの中で意見を言わない
+言い方がストレート
+時間を守らない
その他いろんなことが「文化」という一言で丸め込まれてしまって、その先の議論を妨げてしまう。それはその問題の根本的な事実を見ていない。

このThe Vagina Monologueは決してエロティックでハッピーな内容ばかりではなくて、むしろモノローグの多くはレイプや暴力やFGM、その他にも女性が社会から受けている多くの抑圧的でネガティブな内容が含まれている。
だから「文化」という名のもとにそういう事実から目を背けるのは、その中にある議論の中心を避けていることになる。


でもだからといって、一方的な視点を押し付ける(今回のことでいえば劇場内に無理やり留める)のもやっぱりおかしいと思う。
この手の話題が大きなタブーとして扱われている社会で育ってきたら、生理的な嫌悪感や拒否反応は避けられない。


うーん、難しい。
相互理解とか異文化理解とかなんて、そんなの夢のまた夢だと思う。
難しいけれど、それでも、このThe Vagina Monologueはタブーの世界をいい意味でぶち壊してくれました。
プロダクションチームと共演者のみんなに感謝!