2015年9月17日木曜日

Universidad para la Paz

ついに8月は一度も更新しないまま、月が変わってしまいました...

そして、ここ1年ちょっと、ずーっと夢だったコスタリカでの生活がはじまりました。
修士課程プログラムも、やっと本番がはじまったというところ。

コスタリカに来て1ヶ月。

バス通学になったので、朝にちゃんと余裕をもたなきゃいけないとか、
宿題で出される読み物の量とか、物価の高さとか、スペイン語の環境とか、
フィリピンでの違いもたくさんあるけれど基礎コースも終わり、ようやくこっちでの生活も落ち着いてきた気がします。

大学はというと、本当に多様性の宝庫で、100人ちょっとしかいないのに50カ国以上から学生が来ています。でも、中東やアフリカの学生が少なくて、そして中国やロシアという大国からの学生がいないのがちょっと残念。


とはいえ、先週終わった3週間の基礎コースは宿題の読み物がたくさんあったけれど、とーっても濃厚な時間でした。この授業は世界の様々な問題(ジェンダー、環境、国際法、紛争解決、教育、異文化理解などなど)について、違う専攻の学生たちといろんな角度から議論しよう、というクラス。毎回予習ののちレクチャーを聴いて、20人くらいのクラスに分かれて議論をする。

わたしの興味のあるものから全く知らないトピックまで幅広くて、しかもいろんな国の視点が混ざり合うディスカッションは複雑だけどすごくおもしろかった。大国の利益、小国の戦略、他国の思惑、国連の役割...クラスメイトの議論を聞いて入るとまるで小さな世界だな、と思う場面がいっぱいありました。



そんななかでもとりわけわたしの印象に残っているのが、それぞれの個人の差別体験をシェアしたとき。
単純なことだけれど、人種も国籍も関係なく、みんな何かしら差別された経験がある。
わたしのなかで、西欧諸国出身の白人は差別にあわないんじゃないか、むしろ加害者のほうなんじゃないか、というバイアスがどこかにあって、だからこそ彼らの話がとても新鮮で、自分のなかにある偏りに気づけたシェアだった。

というのも、ちょっと苦手なアメリカ人の子が同じディスカッショングループにいて、決して悪い人ではないんだけれど、時々(わたしの持っている価値観からは)配慮に欠けるそぶりがあって、それがなんだかわたしのなかでは「傲慢さ」にうつっていた。
短期間だったから深い関わりを持てたわけではないけれども、でもその「傲慢さ」は、人によっては差別と感じてもおかしくないような、攻撃性も含んでいる気がしていた。

だからこそ、彼が自分がユダヤ人家庭の出身で、それにまつわる差別の経験を共有してくれたとき、ちょっと腑に落ちたところがあった。
とくに多民族国家のアメリカでは、いくら自分の国にいても、自分にとってのホームにいても、差別をされるという環境がある。そんな環境下では、時として自分の主張を強くもって、他を顧みずにガツガツ強気でいるいことが必要なときだってある。それが生き抜く術なのかなと思ったのでした。
だからなんだか、日本で育ったわたしは向こうからしてみたら生緩くうつるのかもしれない。平和ボケってこんなとこにもあるのかも。それが良いか悪いかは別として。


そんなことがありつつも、日々コスタリカのラテンな雰囲気と学校での多様性にもまれながら勉強がんばります!






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